川西英の想いでさまざま,神戸百景,株式会社シーズ・プランニング

 早いもので、川西英が亡くなって50年近く経った。今回株式会社シーズ・プランニングから画集出版のお話をいただいたのをはじめ、海外・国内の立派な美術館から創作版画の初期時代を紹介する展覧会の企画がある毎に著作権使用許可の依頼が絶えないのには、本当に幸せな版画家だとしみじみ感じている。
 神戸に生まれ育ち、離れたことがなかったし、私も生まれて英の亡くなるまで一つ屋根の下で暮らしたので、思い出はいっぱいで尽きることがない。
 代々商家だった家に生まれて、親から画家になることを反対され、それでも絵を描くことが好きでたまらない一心で、画家を目ざした。最初は油絵を志していたものの、山本鼎の作品「ブルターニュの入江」に深く感動して版画家に転向したのは、日本で浮世絵版画の栄えた時代が終って創作版画が始動した明治後期の頃であった。
 当時は現代の空港が海外からの交流の窓口である時代とは異なり、神戸・横浜など港が国の玄関口であったから、英の生まれた神戸は港と深い関わりを持ちながら街を発展させた。2007年開港140年を迎えたが、港という外国の窓口から貿易を通じて様々な外国の文化や物資が他の地域に比べ早く流れこんだ。その上外国人の住む居留地があり、見慣れない建物や珍品が見られる街となった。英は溢れる異国情緒に興奮しつづけ、強い影響を受け、明るい色調の独特の画風を生みだした。

 初めに絵を描くことが好きでたまらないので親の反対を押し切って画家になったが、作品を制作する時が何より楽しかったようで、私はいつも絵を描くことがそんなに楽しいものかと感心して眺めていた。私はこの齢になっても作品を描くとなると気分的に緊張して、とても父の心境にはなれない。体調を崩して寝ていても外部から良い仕事の依頼が入ると、病気を忘れてすぐ着手し、そのまま元気になってしまうことも度々あって頭の下がる思いであった。
 「自分に師があったとすれば、それは神戸だ」と誇り、「この街が持っている新鮮さ、明るさ、異国情緒といったものに感謝したい」と常々語っていた。
 このように神戸をこよなく愛し、三つの百景を手がけた。戦前の神戸の都市風俗を捉えた「神戸百景」(木版画1933−36年作)と、戦後に神港新聞社の依頼を受けて制作し(描画1952−53年作)、1962(昭和37年)年2月に画集「神戸百景」として出版されたものと、神戸新聞社の依頼により制作した「兵庫百景」(描画1962−63年作・2年間新聞連載)である。この画集ではこのうち第2回目の戦後の「神戸百景」がまとめて収録されている。この100枚は出来上がった時期に神港新聞社の存続状態に変化が生じ、停滞が続いた末、神戸商工会議所から出版された経緯がある。

 第1回目の「神戸百景」は大丸神戸店の新装増築のオープニングの目玉催事の展覧会に間に合わせるため、木版画の作品100点を僅か3年間で完成させたという。常識では考えられない速さで行われたのには感心するばかりである。そしてこの「神戸百景」には1947(昭和22)年6月に昭和天皇が敗戦で焦土と化した日本全国を励しに廻られ、神戸に立ち寄られた時、ホテルもなく当時の神戸一中(現在の神戸高校)の講堂が休憩される御座所となったが、あまりにも飾りけがないため、有力者が相談の結果、この百景を二枚折りの屛風に表装して立てたのをはじめ、洋画壇の巨匠、国画会の創立者の梅原龍三郎先生が神戸の英の家を訪ねられた時にこの百景をご覧いただいて感激したことなど、後々話題の多い作品であった。また第3回の「兵庫百景」は新聞が黒一色刷りであった時代に、神戸新聞社が週に一度色刷りを開始するに当り、英に依頼して連載したものである。
 英のもうひとりの師はサーカスというテーマである。多感な頃の国際都市神戸にはしばしばサーカスがやってきて巨大な天幕を張った。自分の天性に合う運命の題材を見出した時、夢中で手を動かしつつ集中力を発揮したのであろう。スケッチの速いことで取材に同行した新聞社の方から評判が高かった。私は小学校の頃よくスケッチ現場に同行したが、サーカスとかオペラとか動き回る場面で隣から父のスケッチ帳を見ていると、手が驚く速さで動いており、速記の記号のようで人が見ても前の場面の様子が全く判らなかった。ところが家に持ち帰ればこのスケッチ帳から色鮮やかな原画が仕上がるのには感服した。

 ドイツからハーゲンベックサーカスが浜甲子園に来た時、父のスケッチ帳では馬の走る躍動感が次々と描かれているのに、私のスケッチ帳では速い動作に振り回されて全く描けなかった。その時父から走る馬に目を動かすから描けないので、じっと前の一点を見つめていると、そこを馬が何遍でも同じ格好で通るからと教えられ、私もサーカスの作品が出来上ったのを今でも忘れられない。
 神戸の街に入ってきた外国の民芸品に強い興味を持ったことは先に述べたが、港の発祥の地である現在の兵庫区に江戸時代から七代に亘り住んでいた旧い住宅の中では、壁面を全てボードにして所狭しと60か国に及ぶ気に入った民芸品を飾りつけた。印度の織物などは天井まで張りつける有様で、それらが絵を描く時の滋養分の役割を果たしていたものと思われる。日米の戦争が始って本土空襲が近づくと、バーナードリーチや外国の陶器の気に入ったものは壊されないよに庭に穴を掘って埋めたが、その間好きなものが見られないのが寂しいと、スケッチ帳に描いてから順番に埋めたほどであった。
 親の反対を押し切って版画の道に進んだため、専門の学校へもいけず、師もなく独学で苦労を重ねたので、結果的に独自の作風を生み出したことになったが、そのため誰から版画を教えて欲しいと頼まれても「絵は教えたり教えられたりするものではなく、自分の創りだすものである」との信念を貫いて一人の弟子も持たなかった。私は同じ家の中で8才の時から父が仕事を始めると、子供心に親の真似がしたくて見様見真似で木版画を覚えた。

 父の作風だけの影響を受けて歩んだために周囲の人々から悪意でなく褒めるつもりだと判っていても「英さんの作品とそっくりだ」と言われることに悩んだ時代もあったが、今は画風が分かれるようになった。誰でも長い人生には様々な過程を経て進むことを実感している。
(画集「神戸百景」寄稿文より)

川西英の想いでさまざま,神戸百景,株式会社シーズ・プランニング
潮の香薫る(2008) 画・川西祐三郎