昭和東京実景,東京昭和百景,株式会社シーズ・プランニング

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◇ 版画の誕生まで ◇
 私は1926(大正15)年1月、東京淀橋区十二社(現西新宿)で生まれ、その地で14歳まで父が自分で設計して建てた家で過ごした。十二社は甲州街道と青梅街道の中間にある町で、そこにある熊野神社の前に細長い池があった。神社の向かい側の小高い土地には静かな住宅街があった。池の周辺には江戸時代から茶店があったが昭和 2年に小さな花柳界が生まれた。小学校のクラスの半分は花柳界の子女で、もう半分は山の手の子ども達で占められていた。
 昭和12年に中国大陸で始まった日中戦争そして昭和 16年には第二次世界大戦が始まっているから、私は文字 通り首まで戦争に漬かった戦争っ子であった。当時は両親に男3人女2人の7人家族で私はその三男であった。
 幼児期は身体が弱かったが小学 4年生頃からだんだん丈夫になりだして旧制中学の5年間は1日も休むことがなかった。中学は世に聞こえた自由教育の学校であったから私は文芸や絵画の魅力にとりつかれて時代が要求する軍国少年にはどんどん背中を向けていった。私の両親と肉親はだれも私の生き方に全く無関心なので、そんな考えは私の胸の中にひそかに育っていくばかりだった。

 戦争が拡大していくにつれて軍事教練や勤労動員に狩り出される時間がどんどん増えていって、大学生活が始まると学校は殆ど休講ばかりで、配属将校から今でいう体罰が日常的に行われる時代になっていた。
 赤い表紙で横文字の文学論などを抱えて街を歩いていると憲兵などに見咎められて「お前はアカか」などと今では考えられない言葉を浴びせられて、文学青年には非常に生き難い時代に突入していった。
 敗戦の年の1月、満19歳になった時、戦時特例で平時ならば成人の満20歳で受けるべき徴兵検査を受けさせられ、それから 2ヶ月もしないうちに勤労動員で工場のドラム缶作りに従事していた私に召集令の赤紙が送られてきた。私は広島県福山の暁部隊に入隊することになった。「暁」とは船舶兵の称号で輸送船の甲板に乗り込み、高射機関銃で空からの敵の攻撃に対して戦地へ輸送される兵隊を守るのが任務で、例え空爆で船が攻撃を受けても沈没するまで船から離れられないのがこの兵種の宿命であった。当時日本には輸送船は殆ど無く教育隊に入隊した私は陸上に描かれた船の型や指令塔の模型の付近で訓練するのが精一杯であった。
 8月15日の敗戦までの4ヶ月の軍隊生活は思い出してもぞっとするような地獄の生活であった。

 8月15日、天皇の玉音放送に涙をこぼす将校や古兵を他所に私は生き延びた喜びでつい笑顔になるのをこらえるのに苦労した。敗戦から一か月後の9月、身体中蚤・虱・南京虫にやられて全身ピエロのようになって 5ヶ月ぶりに復員した。
 復員後新聞を見たりして就職口を懸命に探し、これと思う募集広告に履歴書を郵送してみたが大半は返送されてきて半年位は時間を空費した。
 或る時、数寄屋橋の付近を歩いていたら学校時代の旧友に出会った。彼は新劇に熱中していて「俺はそこへ行く気がしないが老舗の出版社で良心的な児童雑誌の編集員を探しているよ、よかったらY先生に手紙を出してごらん」と持ちかけられた。Y先生は地方の勤労動員の工場へ時々監督に来られたりしていて、休まずに動員に参加していた私に好意を持っていて下さったので、いたずらに徒食しているより手紙を書いてみようと早速実行に移した。すると間もなく葉書で返事が来て私は指定された日時に大森の先生宅を訪問した。
 先生は君は真面目に動員に勤めていたからと言われて会社へ話して下さった。学業の成績よりも勤労動員が役に立つとは思ってもいなかった。おかげで私は出版社に就職することが出来た。

 編集の仕事も大分身について、3、4年で雑誌が廃刊になると、文学の単行本や全集、美術書にまで仕事が広がり忙しい日常を送りはじめた。その頃私は休日になると、それまで自分の生まれた東京を殆ど知らなかった事に気付いて東京を隅から隅まで地図を頼りに歩き廻った。ことに戦争中は極端に個人で行動することが出来なかったのでこの探索では新鮮な思いにかられて飽きることがなかった。暫くして私は自分の故郷を記録することを思い立った。
 その頃のデパートでは並べる商品が極端に少なく、浮世絵の複製展や摺師による実演や古書市がいたる所で行われていたので、私はまめにそれ等を見て歩いて木版画で記録する気持ちになっていった。ひとつには会社の仕事とは別に自分独りの思索の時間を持ちたかったからである。もともと絵を描きたいと思っていた願いが叶ってこつこつと木を削ることが面白くなって、土曜日など明け方まで版画に熱中した。私は絵の学校に通ったこともなく木版画の技法も全く独学であった。

 私は自分の詩をうたうことに充足感を覚えていった。私は生活の匂いのする町角や路次を好んで探して歩いた。そして被写体との間にある空気が描けていたら、それで自分の目的は果たせたと思っている。ただ何故か神社仏閣や既製の名所旧跡を描いたことはない。

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思うにこれらは視覚的に大きな変化がないのと人間の 暮らしの匂いがないからかも知れない。またこれ等のモチーフはいつも保護の対象になって民家のように都市計画の犠牲になり、一夜にして姿を消す恐れがないからであろう。普通写生をしている時私は電線など殆ど書き入れたことはない。私は電柱やガードレール等不必要と思えばどんどん取り除いてしまう。そんなものを取り除いても絵からその路次の個性や風土感は失われるものではないと思っているからである。
 私は街の現場に立った時にもっとも絵になるアングルをとっさに決定するのが習慣になっている。そして短いスケッチの時間に終わってしまうのがいつもの習慣である。道行く人に覗き込まれるのがテレ臭いから……。私が50歳を過ぎた頃人生の折り返し地点に立って、これからの行先を考えた時、思い切って出版社を辞めて自分の細腕に人生を賭けてみようと決心した。今考えても無謀だったかもしれないが私の家族は協力してくれた。
 ……もう東京には描く所は余りないと思いながらも何故か何かの用事で見覚えのある町を通りかかった時など、季節や天候の加減でその場所がひどく新鮮に思えることもある。
 考えてみると、ああ、これも絵にすれば面白いなと思ったりするが人間の欲にはきりが無いものである。